Ⅰ 事案の概要
1 本件は、X社が競合他社で勤務していたYをヘッドハンティングして労働契約を締結する際に、雇用期間経過前にYが退職した場合には返還するという約定で交付した金銭について、Yの退職により期限が到来したと主張して、主位的に金銭消費貸借契約、予備的に不当利得返還請求権に基づいて返還を求めた(以下、「本件訴訟」といいます。)事案です。
2 問題となった契約は2つあります。Cash Advance Distribution Agreement契約(以下、「CAD契約」といいます。)とForgivable Loan契約(以下、「FL契約」といいます。)です。
X社とYは、平成23年10月16日付で雇用契約を締結し(以下、「本件雇用契約」といいます。)、同日付でCAD契約も締結され、X社はYに対し、CAD契約に基づいて、同年11月24日に1045万円を振り込みました。
また、X社はYに対して同年11月10日、翌年の平成24年2月19日に、FL契約に基づき合計84万7917円を振り込みました。
3 本件訴訟で、Yは、1045万円は移籍のための契約金としてもらったにすぎず、84万7917円は休業補償としてもらったにすぎず、いずれも返還は予定されていないと主張しました。
また、Yは、仮に上記合計1129万7917円が、金銭消費貸借契約に基づく金銭交付であったとしても、CAD契約およびFL契約は、労働基準法(以下、「労基法」といいます。)5条、16条に違反し、同法13条、民法90条により無効であり、また、不当利得返還請求についても不法原因給付に当たるため、返還を要しないと主張しました。
Ⅱ 判決のポイント
1.本判決の争点
1 本裁判例の争点は以下の通りです。
①CAD契約およびFL契約は、金銭消費貸借契約であるか
(1)CAD契約による金銭消費貸借契約の成否について
裁判所は、英文の CAD契約書には、「Loan」と明記されていた上、Yは、X社が依頼した弁護士から、各条項ごとに日本語に通訳されて説明を受けた上で同契約書に署名しているのであるから、Yは、CAD契約について交付される金銭が貸金であり、雇用期間満了時までにパートナーでなくなった場合には返還しなければならないものであることを認識していたといわざるを得ないとして、X社とYとの間で、1045万円について金銭消費貸借契約が成立したことが認められる旨判示しました。
(2)FL契約による金銭消費貸借契約の成否について
裁判所は、Yは、外国人投資家を顧客とし、ある程度英語の素養があるところ、FL契約書には、返済免除条件付ローン「forgivable loan」であることが明記されているのであるから、Yは、FL契約に基づいて交付される金銭が貸金であり、当初雇用期 間よりも前に退職した場合には返還しなければならない性質のものであることを認識していたといわざるを得ないとして、X社とYとの間で、84万7917円について金銭消費貸借契約が成立したことが認められる旨判示しました。
②CAD契約およびFL契約は有効か(労基法5条、16条に違反しないか)
本判決は、以下の理由から、CAD契約及びFL契約は、交付される金銭の性質、態様、当該給付の返還を求める約定の内容に照らし、Yの自由意思に反して労働を強制する不当な拘束手段であるといえるから、労基法5条、16条に反し、同法13条、民法90条により無効であると判示しました。
- ⅰ 経済的足止め策も、それが労働者の自由意思に反して労働を強制するような不当な拘束手段であるといえるときは、労基法5条、16条に反し、当該給付の返還を定める約定は、同法13条、民法90条により無効であるというべきである。
- ⅱ CAD契約及びFL契約に基づく金銭の交付は、X社がYを競合会社から引き抜くためにYに提供する金銭であるところ、これらは、雇用期間満了前に退職する場合には一定の範囲で返還義務を課すことによってYを一定期間X社との労働関係の下に拘束することを意図する経済的足止め策というべきものである。
- ⅲ CAD契約及びFL契約に基づく金銭の返還義務は、雇用期間満了前にYが退職することにより発生するものであるから、債務不履行による違約金または損害賠償額の予定に相当する性質を有していることも認められる。
- ⅳ CAD契約及びFL契約に基づいて交付された額の合計額は、Yの年収の約4分の3を超える額であり、退職時に一度に全額返済することは容易でないことが推認され、その返還を免れるためにYの意思に反して本件雇用契約に基づく労働関係の拘束に服さざるを得ない効果をYに与えるものということができる。
③Yは、X社に対し、交付された金員を返還しなければならないか
X社が、Yは法律上の原因なく合計1129万7917円をX社から交付されていることになるから、不当利得として返還すべきである、と主張したのに対し、本判決は、CAD契約及びFL契約は、Yを競合他社からX社に引き抜くための手段であり、これらの契約の締結を被告が積極的に持ち出した形跡はないから、民法708条(不法原因給付)により、X社は当該給付の返還を請求することができない旨判示しました。
2 結論
以上より、本判決は、CAD契約およびFL契約のいずれも無効であると判断し、X社がYに交付した合計1129万7917円の返還請求を認めませんでした。
Ⅲ 本事例からみる実務における留意事項
いわゆるサイニングボーナスとして、入社時にまとまった金額の金員を支給し、一定の期間以内に退職しなければ返還を求めないものの、退職した場合には返還させる旨の合意をするケースがあります。
このような合意は、労働関係の下に一定期間拘束する経済的足止め策となり、退職の自由を奪う可能性があることから、使用者が労働者の自由な意思によらない労働を不法または不当な手段によって強いることを禁止する労基法5条や、使用者は労働契約の不履行について違約金を定め、または損害賠償額を予定する契約をしてはならないと定める労基法16条に違反しないかが問題となります。
労基法5条が定める「その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」とは、暴行、脅迫、監禁に準じる不法又は不当な拘束手段であり、このうち不当な手段とは、社会通念上是認し難い程度に精神的身体的な束縛を加える言動を含む概念で、周囲の具体的な事情により労働者に明示又は黙示の威圧を及ぼす場合かどうかを総合的に検討して判断されることになります(東京大学労働法研究会編・注釈労働基準法(上)115)。
本判決は、上記Ⅱのように、CAD契約およびFL契約のいずれも労基法5条、16条に違反し、同法13条、民法90条により無効であると判示した上で、X社が主張した不当利得返還請求も、CAD契約およびFL契約に基づく金銭の交付は不法原因給付であったとして認めませんでした。
不法原因給付について規定する民法708条は、「不法な原因のために給付をした者(本件ではX社)は、その給付したものの返還を請求することはできない。ただし、不法な原因が受益者(本件ではY)についてのみ存したときは、この限りでない。」と定めています。労基法に違反する契約を締結したという点では、給付者である X社と受益者であるYの双方に不法の点があったというべきですが、CAD契約もFL契約もヘッドハンティングのために X社が持ち出した話であることから、給付者であるX社の不法性が受益者であるYの不法性に比して極めて微弱であるということは言い難いでしょう。
優秀な人材を得るために、移籍にインセンティブを与えて勤労意欲を促し、また、移籍のための離職期間の手当を与えることは有意義な手段と言えましょう。しかし、返還義務の条件が労働者の退職の自由を害していないかは慎重に検討すべきです。経済的足止め策と強制労働の禁止との関係について判示した、示唆に富む裁判例と言えるでしょう。
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