Ⅰ 事案の概要
Xは、Y社との雇用契約に基づき業務を行っていましたが、Y社を退職後、未払いの時間外・深夜割増賃金等の支払いを求めました。
Xの賃金は26万円であり、時間外労働時間数が80時間を超えた場合や深夜労働を行った場合には上記賃金に加えて時間外割増賃金ないし深夜割増賃金が支払われていました。
すなわち、賃金26万円の中に月間80時間までの残業代が含まれており、残業が80時間を超える場合に別途残業代が支払われていたところ、Xの請求は、そのような固定残業代の定めは無効であり、より多くの残業代等が支払われてしかるべきだ、というものでした。
裁判では、XとY社の間の雇用契約における固定残業代の定めの有無及びその有効性が主な争点となりました。
Ⅱ 判決のポイント
1 一審判決(東京地裁)
一審判決では、固定残業代の定めの有無及びその有効性について、以下のように判断されました。
- (1) まず、Xの雇用契約上、基本給26万円のうち9万9400円は月間80時間分相当の時間外勤務に対する割増賃金として支給され、Xの時間外労働時間から80時間を控除した時間について、残業手当が支払われていたことを認めました。
- (2) その上で、上記の基本給のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と時間外労働の割増賃金の部分とが明確に区別なされているか否かについて、本件では雇用契約書ないし年俸通知書において基本給に80時間分の固定残業代が含まれることが明示されていること、給与明細に時間外労働時間数が明記された上、80時間を超える時間外労働分の割増賃金が支払われていることから、基本給のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と時間外労働の割増賃金の部分とを明確に区分することができるとしました。
- (3) また、固定残業代の対象となる時間外労働時間数が80時間とされていることの是非については、1か月80時間の時間外労働について労働者の健康上の問題があるとしても、固定残業代の対象となる時間外労働時間数の定めと実際の時間外労働時間数とは常に一致するものではないことから、ただちに当該固定残業代の定めが公序良俗に反すると解することはできない、としました。
以上の理由から、一審判決では、本件雇用契約における固定残業代の定めは有効であるとされました。
2 本判決(東京高裁)
控訴審の本判決では、一審判決と異なり、固定残業代の対象となる時間外労働時間数が80時間とされていることに問題があるとして、本件の固定残業代の定めは無効であると判断されました。
- (1) 厚生労働省は、いわゆる過労死認定基準の中で、発症前1か月の時間外労働時間数がおおむね100時間を超える場合や、発症前2か月間ないし6か月間にわたって、時間外労働時間が1か月あたりおおむね80時間を超える場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できると示しています。
本判決は、この基準を挙げた上で、1か月あたり80時間程度の時間外労働が継続することは、脳血管疾患等の疾病(「過労死」につながる疾病)を労働者に発症させる恐れがあるものであり、そのような長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定して基本給のうちの一定額をその対価として定めることは、労働者の健康を損なう危険のあるものであって、大きな問題があると言わざるを得ないとしました。
その上で、実際には長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定していたわけではないことを示す特段の事情が認められる場合はさておき、通常は、基本給のうちの一定額を月間80時間分相当の時間外労働に対する割増賃金とすることは、公序良俗に違反するものとして無効とすることが相当であるとしました。 - (2) 次に、上記(1)の観点から、本件固定残業代の定めが無効とされるべきものか否かについて判断しました。
まず、本件固定残業代の定めにおいて80時間までの時間外労働時間の固定残業代が基本給に組み入れられていたことは、少なくとも月間80時間に近い時間外勤務をXに恒常的に行わせることを予定したものであるとしました。
また、Xの現実の勤務状況は、過労死認定基準に示されている長時間の時間外労働(時間外労働時間が1か月に100時間を超えるか、1か月あたりの時間外労働時間が80時間を超えることが2か月間ないし6か月間のいずれかの期間に渡る)に該当するものであり、Xが実際にこのような長時間の時間外勤務をおこなっていたことが、本件固定残業代の定めにおいて月間80時間に近い時間外勤務をXに恒常的に行わせることが予定されていたことを裏付けるものであるとしました。
以上から、本件固定残業代の定めは80時間という長時間の時間外労働を恒常的にXに行わせることを予定するもので、労働者の健康を損なう危険のあるものであり、公序良俗に反するものとして無効とされ、Y社に対して、200万円超の未払割増賃金及びその半額に相当する付加金(労働基準法114条)の支払いが命じられました。
Ⅲ 本事例からみる実務における留意事項
本判決は、固定残業代の有効性が問題となった事案です。固定残業代には、基本給とは別に定額の手当が支給される場合もありますが、本件の給与体系は、基本給に一定時間分の割増賃金(残業代)が含まれているというものでした。
固定残業代が問題となる紛争は近年増加しているところ、その有効性について最高裁による判断が蓄積されてきています。その判断枠組みは、割増賃金をあらかじめ基本給や定額の手当などに含めることにより支払うことはただちに労働基準法37条違反とはならず、労働基準法所定の通常賃金部分と割増賃金部分とが判別できるか、割増賃金部分の金額が労働基準法に定める方法により算定される金額以上であるか否かにより有効性を判断するというものです。
本判決では、上記の通常賃金部分と割増賃金部分の判別等の観点から固定残業代の定めの存在自体は肯定されたものの、厚生労働省の定める過労死認定基準を引き合いに出した上で、1か月あたり80時間程度の時間外労働を恒常的に行わせることを予定しての固定残業代は労働者の健康を損なう危険のあるものであり、公序良俗に違反する無効なものである旨が判示されました。
賃金に関する規定について、支払の基準の明確性(通常賃金部分と割増賃金部分の区別など)や割増賃金部分の金額に問題が無くとも、本件の固定残業代の定めのように、予定する労働時間数などの内容によっては無効と判断される可能性があることから、前提となる労働時間数等の条件においても問題が無いか、十分な検討が必要となります。
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