Ⅰ 事案の概要
XはY社の営業部長として勤務していましたが、平成29年4月17日、同社の代表取締役Aらとの面談の際、退職届を提出したいと申し出ました。立腹したAはXに対し、Xを懲戒解雇する旨と、Xが会社の承諾なく行った取引の手形が不渡りになったことについて損害賠償請求する旨を告げました。
他の役員に慰留され、Xは退職届を留保して約2週間勤務を継続しましたが、退職の意思が変わらなかったことから、同年5月1日、会社に対し再度退職の意思を伝えました。Aは立腹し、同年4月17日に懲戒解雇したのだからそれ以後の賃金と経費は払わない旨Xに伝えました。
Y社は同年5月16日、Xに平成29年4月17日付の懲戒解雇通知書を送付し、また手形の不渡りにより生じたとする損害約788万円と平成29年4月17日(懲戒解雇があったとする日)以降の経費約2万円の賠償を請求する旨の書面も送付しました。
一方、Xは、同年5月2日には、同月20日をもって退職する意思を改めて伝えています。
本件訴訟では、Xが平成29年4月17日付の懲戒解雇の事実は存在しない、あるいは無効であると主張して退職日までの未払賃金等の支払いを求めました。またXは、Xが手形取引で会社に損害を与えたとしてY社がXに対して損害賠償を請求したことについて、自身がそのような損害賠償義務を負わないことの確認を求めるとともに、Y社がXに不当な損害賠償を請求したことや、懲戒解雇を理由にXの退職金を減額させ、退職一時金の受取も妨害したことなどを不法行為であると主張し、Xに対する損害賠償の支払いを求めました。
Ⅱ 争点
裁判では、本件懲戒解雇の存否、手形取引についての損害賠償債務の有無、Y社のXに対する不法行為の成否等が主な争点となりました。
Ⅲ 判決のポイント
1 本件懲戒解雇の存否について
判決では、平成29年4月17日のAの「懲戒解雇だ」との発言について、慰留を受けても翻意しようとしないXの態度に立腹するなどして一時的な感情のたかぶりに基づいて口に出たものであること、管理職の懲戒解雇という重大な事項でありながら会社内部の意思決定手続を経ていないことから、事実上の発言に過ぎず、法的効力を伴うものとしての懲戒解雇の意思表示ではなかったとされました。
会社内部の意思決定手続があったか否かについて、Y社は、上記発言に先立つ平成29年4月15日の管理職会議でXの懲戒解雇処分が承認され、同年4月17日のAによる懲戒解雇通告(上記発言)ののち、同日中に取締役会が開催されXの懲戒解雇処分が承認されたと主張しましたが、裁判所は、管理職会議と取締役会それぞれの議事録の内容、Xが同年5月初旬まで勤務しており経費も精算されていたことなどの事情から、議事録は事後的に作成された内容虚偽の書面であり、その内容は信用できないと判断しました。
以上から、Y社が主張するような懲戒解雇処分は存在せず、Xは平成29年5月20日までY社の従業員の地位を有していたとされ、Y社に対して未払賃金の支払いが命じられました。
2 手形取引についての損害賠償債務の有無について
Xが会社の指示に反して手形取引を行い、手形が不渡りになったとしてY社がXに損害賠償を請求したことに係るXの損害賠償義務の存否については、Xの行った取引はAら決裁権限者の決裁のもとに行われ、また当該取引についてXに過失があったとは断定できず、仮に過失があったとしても重い過失とはいえないとして、Xは手形取引について損害賠償義務を負わないと判断されました。
3 Y社のXに対する不法行為の成否について
裁判所は、Xの懲戒解雇自体が存在しないことをY社が認識しながら懲戒解雇が存在するかのように装ってXの共済掛金を納めず、またXの退職一時金の支給を妨害したことを不法行為と認めました。
また、手形不渡りによる損害賠償を請求すること自体は不法行為にあたらないが、Y社が損害でないことが明らかな経費の賠償をも併せて請求し、当該経費についてのXの問合せにも虚偽の回答をしたこと、訴訟において真実と異なる主張をし、取引の決済に関する証拠について改変・偽造したものを提出したことなどは正当な権利行使として許容される範囲を逸脱しており、不法行為にあたるとしました。
以上からY社に対して、Xに対する未払賃金のほか、慰謝料50万円及び一時退職金の減少分にあたる約1万5000円、弁護士費用10万円の支払いが命じられました。
Ⅳ 本事例からみる実務における留意事項
本判決は、営業部長の退職について、未払賃金や退職一時金の支払いとも関連して懲戒解雇の事実の有無が問題となりました。
また、退職金共済の支給を妨害したことや、退職者に対し損害賠償を請求し、その中で虚偽の説明や虚偽の証拠の提出等をしたことについて、会社の一連の行為が不法行為にあたると認定され、損害賠償が命じられた点に特徴があります。
労使関係事案で使用者から労働者に対する損害賠償請求等の訴訟提起が不法行為に当たるか否かが争われた例としては、本件のほかにも、労働者が詐病により退職したことによって損害を与えたとして、使用者から損害賠償請求がなされたことについて、請求の根拠を欠き、通常であれば損害が発生していないことがわかったはずであるのに高額な損害賠償請求訴訟を提起したことが不法行為にあたるとして慰謝料100万円の支払いが命じられた事件(横浜地判平成29年3月30日労判1159号5頁)などがあります。
本件では、実際には懲戒解雇の事実はなかったにもかかわらず、会社が懲戒解雇があるように作出して賃金の一部を支払わず、退職一時金の支給も妨害し、訴訟でも虚偽内容の議事録を証拠として提出しました。また、懲戒解雇の事実はないと認識しながら退職一時金の支給を妨害したり、手形不渡りについての損害賠償を請求し、その中で真実と異なる主張を行い、内容を改変した証拠を提出したりもしました。退職者との協議やその後の訴訟手続の中で会社の対応に大きな問題があったために、損害賠償の支払いまで命じられてしまったケースであるといえます。
本判決から留意すべき事項としては、まず、労働者の退職・解雇については未払賃金や退職金などにも関連し労使間で争いになるケースも少なくないため、法的に有効であると認められるためのプロセスを踏むべきことが挙げられます。また、解雇処分をしたとしつつも、その後も勤務を継続させているなど、処分内容と具体的な対応に矛盾が生じていることも会社の主張の信用性を低下させているといえそうです。
会社と退職者の関係が悪化しているケースでは退職者の問題行為により会社が損害を被ったなどとして、会社から退職者に対する損害賠償請求が行われることもありますが、会社が実際には退職者の行為に問題はなかったと認識していた、あるいは容易に判明しうる状況であったにもかかわらず損害賠償を請求した、また虚偽の説明や証拠の偽造などの不当な行為に出たなどの事情がある場合、そうした不当な損害賠償請求をしたことが不法行為に該当し、損害賠償を支払うことになる可能性があります。会社として労働者に損害賠償請求を行う際には、虚偽の説明や証拠の偽造を行ってはならないことは当然ですが、まず根拠となる事実関係の精査や法的な請求が成り立つか否かについての検討を念入りに行う必要があります。
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